憧れのイングリッシュガーデンとモネの庭をたずねて Vol.9
86歳の生涯、愛し続けた『モネの庭』 (Claude Monet's Gardens)
「モネの庭」は、フランスのパリ近郊、ジベルニー(Giverny)という小さな魅力的な村にあります。この庭は、睡蓮の絵であまりにも有名な、印象派の巨匠クロード・モネ自身の手でつくられました。
ここはモネが晩年を過ごしたところで、住んでいた家とアトリエ、そして睡蓮で有名な池と庭がそのまま財団によって維持されています。
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「ジベルニー」・・・パリから約70Km、ヴェルノンから遠くないこの村にクロード・モネが移り住んだのは1883年4月のことです。 クロード・モネは1840年にパリで生まれ、少年期から青年期をル・アーヴルで過ごしました。 やがてパリで美術を学び、ルノワール、シスレー、バジーらと出会います。1871年にはロンドンに渡りターナーとも出会いました。 日本の浮世絵に驚嘆し、コレクションを始めたのもこの頃のこと。 モネ一家が住んでいた住居には、歌麿、広重、北斎などの浮世絵が、所狭しと飾られています。↓ |
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1882年、後に印象派と呼ばれる画家たちと展覧会を開き、世に出るキッカケになりました。印象派の名称は、自分の作品に付けた“印象、日の出”にちなんだモノで、この絵画は、パリのマルモッタン美術館にあります。 ジベルニーに移り住んだ頃、彼はきわめて経済状態が悪く、画商“デュラン=リュエル”に経済的な援助を受けながら生活していました。 その支援を受け、徐々に名が知られ、絵が売れるようになります。 |
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住居の前には、フランス風の“ノルマン囲い庭園”があります。 直線的な小径で区切られた庭には、たくさんのバラのほか、日本の桜やリンゴの木が見られました。 |
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かの有名な“水の庭園”は、“ノルマン囲い庭園”からトンネルを抜け、道の向こう側に出たところにあります。 この土地は、以前ローカル鉄道とロアの道によって切り離されていた場所で、1893年に購入しました。その後、面倒な行政上の手続きを経て、やっと池を掘ることができたのです。 ←左の小川は“水の庭園”に流れ込む水路。ロアの道から見ることが出来ます。 |
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“水の庭園”は、クロード・モネの作品に多大な影響を与えました。彼は、水と光の動きを観察するため、絶えずこの庭を訪れ、、最初の「睡蓮」の連作もここで生まれました。 この日は日曜日のためか、観光客が一杯です。バラのゲートでも、とてもゆっくりしていられなかったほどでした。 |
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“水の庭園”をさらに奥へ進むと、やがて見えてくる池には、たくさんの睡蓮。あぁ〜〜、憧れのモネの庭だ。 高知県北川村にある「 モネの庭マルモッタン」は、見事にこの“水の庭園”を再現していると感じました。 |
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モネは、この太鼓橋を「ル・ポン・ジャポネ(日本橋)」と呼び、好きな場所の一つでした。 当時、パリ万博が開催され、日本からも出展されたのを機に、日本ブームが起こっていた頃です。 |
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1911年、妻アリスに先立たれ、妻亡き後のモネを支えてくれた義理の娘ブランシュの夫が逝き、激しく動揺する彼に白内障の症状が現れます。 病をおしながら、1916年“睡蓮の装飾画”に着手し、1922年に素晴らしい連作を完成させました。この作品は、オランジュリー美術館の楕円形の部屋に収納されています。 1926年12月5日、この世を去る日まで、彼は睡蓮の庭を愛し続けました。 |
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最後に、クロード・モネの言葉を紹介しましょう。 私は、自分の庭の睡蓮の素晴らしさに気づくのに時間がかかった。もともと楽しみで植えた睡蓮を、絵に描こうなどとは考えもしなかった。 風景の良さはすぐには分からない。ある日突然、私は池の素晴らしさを発見し、すぐにそれを描き、それ以来ほかの題材をあまり扱わなくなった。(クロード・モネ) |
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